思い出よ永遠に

私の手元に1冊の大判の写真集がある。タイトルは「幻のレーサー福澤幸雄」。25歳の若さでこの世を去ったレーサー福澤幸雄の追悼写真集である。出版元はノーベル書房で、福澤幸雄が亡くなった年の1969年に最初の版が出た後、1970年代後半になって復刻出版された。

復刻版が発売になった当時、大学生の私には9800円という価格は大そうな値段であったが、渋谷の書店で手にとって以来頭を離れず、後に大学生協で取り寄せ自分のものにした。

 

福澤幸雄は慶應義塾大学を卒業後、トヨタのワークスチームのレーサーとして、当時の最新鋭マシンであるトヨタ7の走行テスト中にこの世を去った。日本人の父とギリシャ人の母を持つ、端正な顔立ちと、レーサーだけでなく自ら立ち上げたアパレルメーカーの役員も兼ねるなど、当時の若者の憧れの的だった。このまさに時代の寵児が、静岡県袋井市のヤマハのテストコースで、トヨタ7をテスト走行中に直線区間でコースを外れ側壁に激突、車体が炎上、一瞬にしてこの世を去ったニュースは世間に衝撃を与えた。スポーツ紙が一面で取り上げたことは言うまでもない。

何故私がこの事故を本ブログで取り上げたかと言うと、この事故原因がトヨタ7に過剰な揚力が発生し、車体が浮き上がり、操縦不能になったのではないかと推測するからである。こうした推測をするのは私だけでなく、様々な識者からもその可能性を指摘されている。航空機においては翼面及び胴体が発生させる揚力により機体を浮揚させることにより、空中に浮き上がることができるが、自動車でも同じような揚力が派生し車体を浮き上がらせることでタイヤの摩擦係数が著しく減少し、ついには操舵ができなくなるわけである。

トヨタのワークスチームのレーサーが、直線区間でそう簡単にコースを逸脱するだろうか。当時ライバルの日産がリリースしたR381は揚力を相殺するためのダウンフォースを発生させるべく、リアにウイングを装備していた。それに比べてくさび形のボディのトヨタ7はダウンフォースへの対策が未完成なのは外観からも知ることができた。

この事故については後に遺族とトヨタとの間で裁判となり、最終的に和解となったが、トヨタ側は事故原因を明らかにすることはなかった。航空機事故におけるパイロットミスが、組織の利害の衝突を避ける隠れ蓑になることがあるように、この事故においても運転ミスを匂わせるような形でトヨタはその責任を回避したように思えてならない。

この記事のタイトルは、冒頭の「幻のレーサー福澤幸雄」のある章から引用させていただいたものである。60年末、日本に初めてイタリア料理を紹介し、文化人の溜まり場だった六本木のキャンティでのスナップ、トレンチコート姿で東京駅に佇む繊細そうな青年の姿、いずれも青春の不安、希望、そして明日への息吹が伝わる貴重な写真ばかりである。

高速走行時の揚力発生という致命的な設計ミスが福澤幸雄の命を奪ったとすると、現代文明に内在する悲劇とそれに対する人間の責任を感じざるを得ない。福澤幸雄をレーサーへと誘った三保敬太郎は福澤の事故死にショックを受け、「SACHIO」というLPアルバムをリリースした。福澤幸雄の肉声が収録されている貴重な作品である。

現在のレーシングカーは、その安全性において格段の進歩を遂げたようだ。それでもアイルトン・セナをはじめとする若きレーサーの犠牲のもとに自動車の走行技術は磨かれてきたたのである。

東名高速道路を西に向かうと、袋井の看板が言える箇所がある。この付近に福澤幸雄が命を落としたヤマハのテストコースがある。この看板を見る度に、この稀有な天才レーサーの死とご遺族の悲しみに心が痛み、文明の生み出す様々な悲劇を少しでも防がねばならなぬと思うのである。

 

 

悲劇と生還 航空事故から見る世界

人間は乗り物を発明したと同時に、事故をも発明しました。死のリスクを背負い到達しようとしている境地は何なのか。生命現象と意識の謎を追求する中で、過去の航空機事故から人間と世界の矛盾を俯瞰し、安全への追求で見えてくる未来を考察してゆきたいと思います。

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